弘前城内の兵士たち。城内には第8師団の兵器廠が設置された
第8師団の兵営を描いた絵図
弘前歩兵第31連隊の雪中行軍(写真はいずれも「青森県史資料編近現代2」より転載)

 ▽鎮台から師団へ
 明治新政府の「政体書」で設置された軍務官は、明治2年(1869)の職員令で廃止され、新たに兵(ひょう)部(ぶ)省が設置された。さらに明治5年には、海軍省と陸軍省が独立した。陸軍は明治4年2月に薩摩・長州・土佐の3藩から兵を徴集して編制された「御(ご)親(しん)兵(ぺい)」を出発点とし、その後、「近(この)衛(え)兵」「近衛師団」と発展して、日本軍の中核となった。
 明治4年8月、廃(はい)藩(はん)置(ち)県(けん)に伴い、常備軍として、東京・大阪・鎮(ちん)西(ぜい)(熊本)・東北(仙台)鎮(ちん)台(だい)が設置された。その際、旧弘前城本丸が東北鎮台第1分営に充(あ)てられ、弘前と軍隊の関係が始まった。明治8年暮れ、弘前分営は青森に移駐することになり、これをもとに、青森歩(ほ)兵(へい)第5連隊が編制された。
 ▽弘前へ師団設置
 明治21年、鎮台は、対外戦を目標とする6師団に改編された。師団は2個旅団(4連隊)をベースに、砲兵・騎兵・工兵・輜(し)重(ちょう)兵をくわえた平時約1万人・戦時約2万5千人の軍隊で、独立作戦行動がとれる単位であった。さらに、明治31年には12個師団制となり、歩兵第4旅団(弘前)および歩兵第16旅団(秋田)からなる第8師団が、弘前に設置されることになった。
 師団設置に先立ち、弘前市や中津軽郡から陸軍大臣大(おお)山(やま)巌(いわお)に対し、兵営敷地の献納願が出された。このような願い出は他でも見られたが、師団予定地以外からの願い出の方が多いほどの過熱ぶりであった。また、弘前への師団設置が決定すると黒石町からも、師団誘致をめざして陸軍大臣や参謀本部次長に内申書が提出された。
 第8師団司令部は、現在の弘前大学農学生命科学部がある敷地に置かれ、通りは「師団通り」と呼ばれた。陸軍病院である弘前衛(えい)戍(じゅ)病院(現国立病院機構弘前病院)や、将校らの相互扶助・親(しん)睦(ぼく)事業を行う弘前偕(かい)行(こう)社(しゃ)(現弘前厚生学院記念館)などが新設され、軍都としての様相が整っていった。
 ▽軍都弘前と市民生活
 第8師団の施設は、弘前市の南郊と、それに続く中津軽郡清水村富田地区から千(ち)年(とせ)村にかけて設営された。地区と市街を結ぶ道路は拡幅され、田畑であった富田地区は一大兵営と化した。
 施設工事は、地元の建築業者が請け負った。また、消費物資は地元調達されたので、軍隊に出入りする御用商人らは大いに潤った。商店も繁盛し、富田大通りや銀座街に、軍人相手のカフェーが立ち並んだ。秋田・山形・岩手から軍人の家族が休日面会に訪れ、市内の旅館は満員状態となった。昭和初期には第8師団の満州派遣や満州移転が取りざたされ、経済的打撃を懸念する声が沸(ふっ)騰(とう)した。このことから見ても、師団設置による経済的効果は絶大であった。
 初代師団長の立(たつ)見(み)尚(なお)文(ぶみ)陸軍中将は、市民との接触を心がけ、東奥義塾での学術講演会では講師も務めた。また、県外から赴任してきた師団関係者との交流は、弘前市民の生活・文化に大きな影響を及ぼした。
 ▽第8師団のその後
 明治35年1月、日露戦争を想定した雪中行軍が、八甲田山中で行われた。弘前の第4旅団を構成する歩兵第5連隊(青森)と歩兵第31連隊(弘前)によって実施されたが、199名の犠牲者を出した第5連隊の惨事は、あまりにも有名である。
 明治38年1月の黒(こっ)溝(こう)台(だい)会戦で第8師団は活躍し、ロシア軍総退却のきっかけを作って「国宝師団」と賞賛された。また、大正11年(1922)には、ロシア革命に伴うシベリア出兵のため、ウラジオストクに派遣された。さらに、太平洋戦争では中国大陸に派遣されたが、後にフィリピンのルソン島に転用され、壊滅した。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆ひと口メモ 輜(し)重(ちょう)兵(へい)
軍需品の輸送や補給に当たる兵。輜重兵第8大隊は旧清水村、すなわち、現在の弘前市清水3丁目付近に兵営された。