上野駅広小路口広場の「あゝ上野駅」歌碑(本田伸撮影)
青森駅前に集合した「金の卵」たち(昭和41年、青森県環境生活部県民生活文化課県史編さんグループ提供)
プラットホームでの見送り(昭和41年青森県環境生活部県民生活文化課県史編さんグループ提供)

 ▽背 景
 高度成長期、都会の企業は、地方から多くの労働力を受け入れた。さらに、増大する一方の労働力需要をにらんで、年少者の採用を積極的に進めた。
 しかし、生活水準が向上するにつれ、都会では進学率が高まり、就職に回る中学新卒者は減少した。これにより、求人争いでは大企業に勝てない多くの中小企業は、都会の年少者を雇うことが難しくなった。
 このような状況において、集団就職は、企業・労働者双方の希望に応える有力な手段となった。
 ▽始まり
 集団就職の前提に、集団求人がある。昭和29年(1954)、渋谷区公共職業安定所管内の商店連合会が新潟県高田市(現上越市)の職業安定所と提携し、まとまって求人を行った。これが集団求人・集団就職の始まりとされる。
 求人側には、地域的団体と同一業種団体とがあった。例えば、商業協同組合などは前者に含まれ、酒屋・そば屋・喫茶店・食肉店・洋品店など、同一地域の異なる業種が組合を組織したものである。
 対して後者は、織物業なら織物業どうし、理容業なら理容業どうしの、同一業種による団体である。昭和36年には、求人団体の約8割が同一業種団体であった。
 ▽就職列車
 第二次世界大戦後、青森県内の労働力需要は乏しかった。農業後継者はともかく、農家の2・三男や中学・高校の新卒者が県内で就職先を見つけるのは難しかった。そこで彼らは、関東・京(けい)阪(はん)神(しん)方面に赴き、製造業・紡(ぼう)績(せき)業・商業などの中小零(れい)細(さい)業種の労働者となったのである。
 このような事情を踏まえ、県は、新卒者を安全に就職先へ送り届けることを検討し、国鉄と交渉した。その結果、集団就職者専用の臨時列車が青森・上野間の東北本線に、全国にさきがけて運行された。昭和29年4月のことである。
 昭和30年代から40年代にかけ、地方の新卒者が都会の企業に集団就職するようになり、就職列車で移動した。最盛期は昭和39年度で、35の道府県から、7万8407人が専用列車で都会に向かった(歴史学会編『郷土史大辞典』)。彼らは「金の卵」と呼ばれ、高度経済成長期の産業経済を、
そして日本社会を支えた。
 ▽盛 衰
 県外就職の希望者は、年々増えた。昭和37年度を例にとると、求職者のうち県外に就職した割合は、高卒で約40%、中卒で約50%の高率であった(『青森県教育史』二)。しかし、就職先の90%が中小企業で、なかには、就労条件が事前説明と異なるケースがあったりしたため、途中離職者も多かった。
 昭和35年3月、青森県は県内の職業安定所から15~20人の職員を選び、集団就職列車の引率を兼ねて、東京・福井・横浜など就職者の多い地域に派遣した。彼らは一週間ほど滞在し、就職後の定(てい)着(ちゃく)補(ほ)導(どう)を実施した。
 昭和30年代後半、零細企業は労働者を確保するため、賃金・労働時間・厚生施設など福利面の改善を図った。しかし、昭和40年代に入ると産業構造が変化し、求人に対する企業側の考えも一通りではなくなった。また、地方でも高校進学率が高まり、中学新卒=集団就職という構図は成り立たなくなった。こうして昭和50年3月、集団就職列車は廃止された。
 平成15年(2003)、上野駅の広小路口広場に、上野駅開設120周年を記念して、一基の歌碑が設置された。青森県弘前市出身の歌手井沢八郎(本名工藤金一)が歌ったヒット曲「あゝ上野駅」をモチーフにしたものである。集団就職で上京した若者を題材としたこの歌は、まさしく彼らの愛唱歌であった。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆ひと口メモ 金の卵

金の卵めったに手に入れることができないものの喩(たと)え。将来性に富む地方出身の中学新卒者を指したことばである。