平成14年に発見された「標符」(弘前市個人蔵)
「山機録」に描かれた尾太鉱山(弘前市立弘前図書館)
昭和10年建立の乳井貢顕彰碑(西目屋村川原平・小石川撮影)

 ▽破綻(はたん)する藩財政
 18世紀に入ると、幕藩体制には様々(さまざま)な矛盾が見え始めた。東北地方でも大規模な飢饉(ききん)が相次ぎ、経済や社会に影響を与えた。
 弘前藩では、廻米を担保とした上方商人からの融資によって財政を運営してきたが、凶作のたびに借財は膨んだ。宝暦4年(1754)には、歳入の二倍に匹敵する35万両もの借財を抱え、破綻寸前であった。
 その状況を立て直すため白羽の矢を立てられたのが、乳(にゅう)井(い)貢(みつぎ)(市郎右衛門建福(のりとみ))という武士身分の儒学者だった。
 ▽「学者」と「山師」の接点
 乳井を中心とする「宝暦改革」は、経済統制を強化して財政再建を進めようとするものだった。
 乳井は算学や農学など実学に熟達し、朱子学から発して、独自の思索を深めた。多くの著作を残したが、机上の学問に留まらず、理想実現のために行動した。徹底した実用主義者であった乳井にとって、改革そのものが、自らの思想を実践する場となったのだろう。 「学者」乳井が改革を推進していく上で手を組んだのが、他国出身の「山師」商人である足羽(あすわ)父子であった。父子の財力は御用達(ごようたし)商人の中では最低レベルだったが、その才幹と人脈とで御用
達の筆頭にまでなった(「高岡霊験記」)と評されているように、父次郎三郎は「惣御用達」を務め、子長十郎は物資の流通をつかさどる「運送役」の元締(もとじめ)となるなど、改革の実務の中枢を担った。
 次郎三郎は大坂で銅・鉛の売却を担当し、強大な力を持つ大坂銅(どう)吹(ふき)屋(や)仲間や豪商たちとわたりあい、住(すみ)友(とも)泉屋をはじめとする上方の商人資本との関係を深めることに成功した。尾(おっ)太(ぷ)銅山の経営を任されるや、幕府銀座銅方との交渉を一手に引き受けるなど、多面的な活躍をしていた(長谷川成一「足羽次郎三郎考」)。さらには、豪商飛(ひ)騨(だ)屋(や)久兵衛の人的ネットワークに組み込まれていた形跡があるという。そうした全国的な商人資本との
つながりによって培(つちか)われた知識が、乳井に多大な影響を与えたと思われる。
 ▽「標(ひょう)符(ふ)」の混乱
 宝暦5年、弘前藩は大凶作に見舞われた。上方商人資本への依存体質から脱却することを目指した経済政策が順調に動き出した矢先の、まさしく非常事態だった。凶作による打撃を立て直しつつ改革を進めるため、乳井によって、大胆な政策が打ち出された。それが、すべての商取り引きを金銭ではなく「標符」という通帳で行わせるという金融・流通統制だった。
 乳井は領内の有力農民や町人の財産を藩庫に納めさせ、商家に対しては、取り扱う品物を一つに限定した。同時に商品の値段も一定にし、米・金の相場を固定化するなどの方策を立てた。
 物資の流通は、足羽長十郎を頂点とする運送方が引き受け、「標符」を介して統制した。だが藩庫への物資の集中を強力に推し進めた結果、領内の経済は大混乱に陥り、乳井や足羽父子は失脚して、改革は頓(とん)挫(ざ)した。
 ▽強烈な使命感
 こうして、弘前藩の宝暦改革は失敗に終わった。しかし、藩財政を強くすることなくして、寒冷な自然環境のゆえに頻発する凶作への対応はできないのだという、乳井の強い想(おも)いが貫かれていたものだったと言えるのではなかろうか。
 乳井は著書「志学幼弁」の中で「国を豊かにし、窮民を救い、主君を安泰にすることが武門に生まれたものの使命である」と記している。使命を果たすためならば非難も賞賛も瑣(さ)末(まつ)なことで、やれることを徹底的にやりきるだけ、という覚悟があった。その強烈な使命感こそが、毀(き)誉(よ)褒(ほう)貶(へん)を超えて、乳井の改革に今なお、鮮烈な印象を与え続けるのである。
(弘前市教育委員会文化財保護課主事 小石川透)

 

◇ひと口メモ 飛騨屋久兵衛

江戸時代の豪商。大畑村(現むつ市)に出店し、材木業で巨富を得た。四代久兵衛の倍行(ますゆき)は蝦夷地の場所請負人となるが、寛政初年のクナシリ・メナシの乱で莫大な損失を受け、当地から撤退した。