昭和戦前期の十和田湖子の口(県史編さんグループ提供)
明治末期の大鰐温泉(県史編さんグループ提供)
昭和戦前期の瑪耶渓(県史編さんグループ提供)

 ▽観光地十和田湖の誕生
 明治41年(1908)、五戸町出身で日本初の総合雑誌「太陽」の人物批評に健筆を振るった鳥谷部春汀(とやべ しゅんてい)は、大町桂月(おおまち けいげつ)を十和田湖に案内した。桂月はこの時のことを「太陽」に発表し、これにより、十和田湖は全国的に知られるようになった。同年、青森県知事に就任した武田千代三郎は「十和田保勝論」(同45年)を発表して十和田湖の重要性を説き、十和田保勝会を設立して、発動機付き遊覧船の就航や観光道路の大改修に着手した。
 昭和2年(1927)夏、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社は鉄道省の後援を得て、全国投票による「日本八景25勝」と「日本百景」を選定した。これは国内における新景勝地の推奨と紹介を目的としたもので、十和田湖は「日本八景」に選定された。このとき武田と共に奔走したのが、観光地十和田湖の整備に尽力した法奥沢(ほうおくさわ)村(旧十和田湖町の前身)の村長小笠原耕一であった。これが弾みとなって昭和11年、十和田湖は国立公園の指定を受けた。
 ▽津軽十景の選定
 昭和3年、「弘前新聞」は1万号記念事業として「津軽十景」を選定した。周辺住民の多大な関心をひいたこの選定事業の結果は、(1)瑪耶渓(めやけい)(西目屋村) (2)座頭石(ざとういし)(弘前市) (3)法峠(ほっとうげ)(黒石市と旧浪岡町の境) (4)弘前公園 (5)乳井(にゅうい)神社(弘前市) (6)岩木山 (7)芦野(あしの)公園(旧金木町) (8)愛宕(あたご)山(旧岩木町) (9)御幸(みゆき)公園(黒石市) (10)久渡寺(くどじ)(弘前市)という順位となった。その熱気は、開票作業に弘前警察署員が立会人として動員されるほどであった。
 その後県内では「新八戸八景」(八戸市)、「平内六景」(平内町)、「深浦12景」(深浦町)、「唐竹八景」(旧平賀町)、「小泊名所12景」(旧小泊村)などが選定された。
 ▽温泉郷の様相
 津軽地方には、全国的に名の知れた温泉郷が点在する。
 浅虫温泉は弘前藩領の温泉18カ所のひとつで、藩主もたびたび湯治(とうじ)に訪れた名湯である。明治時代に入ると湯治客でさらににぎわい、明治24年に東北線の上野・青森間が開通すると、観光地としても発展した。「東北の熱海」というふれこみで、観光客誘致に努めた。大正13年(1924)には東北帝国大学臨海実験所が設けられ、隣接する附属水族館は多くの観光客でにぎわった。
 平川(ひらかわ)の上・中流域は、大鰐(おおわに)碇ケ関(いかりがせき)温泉郷県立自然公園(昭和28年指定)を構成している。大鰐温泉郷は、町の中央を流れる平川の両岸に発達した。西岸を大鰐温泉、東岸を蔵館温泉と呼んでいた。弘前藩三代藩主津軽信義(のぶよし)が鷹狩りの御仮屋(おかりや)を建て、入湯したという。
 碇ケ関は大間越(おおまごし)・野内とともに津軽三関のひとつで、四代藩主津軽信政(のぶまさ)によって御仮屋が建てられた。後には伊能忠敬(いのう ただたか)、古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)、吉田松陰(よしだ しょういん)らもここを通った。
 黒石温泉郷県立自然公園(昭和33年指定)を流れる浅瀬石川(あせいしがわ)の支流には、板留(いたどめ)・温湯(ぬるゆ)・青荷(あおに)・落合(おちあい)などの温泉が分布する。九代藩主津軽寧親(やすちか)は黒石街道を通って温湯へ湯治に出かけたという。
 岩木山中腹の嶽(だけ)温泉は、江戸時代の半ば、百沢(ひゃくざわ)村の長五郎が湯治施設を営業したのがはじまりという。かつては、共同浴場の捨て湯を引いた馬の浴場もあった。
 ▽交通網の整備と観光化
 昭和40年8月、県内初の有料道路として「津軽岩木スカイライン」が開通した。昭和42年10月には、「下北環状道路」や「十和田湖一周道路」も完成した。
 観光客の足の主力である鉄道は、昭和43年10月、東北本線が複線電化された。特急列車の運行で上野・青森間は2時間もスピードアップし、8時間半で結ばれた。昭和46年10月には奥羽本線の青森・秋田間が電化されたが、その陰で、SL(蒸気機関車)は姿を消していった。
(青森県立郷土館主任学芸主査 竹村俊哉)

 

◆一口メモ 古川古松軒(ふるかわ こしょうけん)

 江戸時代中期の地理学者。備中(現岡山県)の人。長崎で蘭学を学んだ後、諸国を周遊してその土地の風物や史跡などを研究した。幕府巡見使に随行して東北・北海道を視察し、『東遊雑記』を著した。