満天姫絵像(弘前市長勝寺蔵)

 ▽満天姫の輿(こし)入れ
 慶長12年(1607)12月、津軽為(ため)信(のぶ)は京都で死んだ。為信の跡を継いだ三男信(のぶ)枚(ひら)は家臣団統制を進め、藩主権力の強化を図った。
 信枚が、戦国の遺風吹き荒れる激動の時期を乗り切ることができた背景には、2人の女性の支えがあった。徳川家康の養女として信枚に嫁いだ満(ま)天(て)姫と、信枚の側室として3代藩主津軽信(のぶ)義(よし)を生んだ大館御前である。
 満天姫の実父で下(しも)総(うさ)国関(せき)宿(やど)(千葉県野田市)城主の松平康元は家康の異父弟だから、満天姫は家康の姪(めい)に当たる。初めは安(あ)芸(き)国広島(広島県広島市)城主福島正則の嗣子正之に嫁いだが、正之が早世したため、実家に戻っていた。
 慶長16年6月の満天姫入(にゅう)輿(よ)については、面白い話がある。家康から望みの家へ嫁いでよいと言われた満天姫は、江戸城で能の催しが開かれた折り、密かに諸大名の姿を見ることにした。その中で際立った男振りの信枚に惹(ひ)かれ、津軽家への輿入れを希望したというのである(「津軽編覧日記」)。また、家康の信認厚く幕政に影響力をもち、信枚とも師弟関係にあった天(てん)海(かい)僧(そう)正(じょう)が、この婚姻を取り計らったともいう。

弘前東照宮(市毛幹幸提供)

 ▽信枚の内(ない)憂(ゆう)外(がい)患(かん)
 当時、信枚の周辺には難問が押し寄せていた。例えば、為信以来の家臣の間に信枚への不満が蓄積し、慶長17年には重臣高(こう)坂(さか)蔵(くら)人(んど)を反逆の疑いで誅(ちゅう)滅(めつ)しなければならないほどだった。
 家康が死去した直後の元和3年(1619)、信枚と満天姫は弘前城内に家康を祀(まつ)る東(とう)照(しょう)宮(ぐう)の建立を願い出て、許された(「津軽一統志」)。東照宮の勧(かん)請(じょう)は全国的に見てもかなり早い時期になされたもので、津軽家と徳川家との関係の深さを示している。
 元和5年(1619)、広島城の無断修築で福島正則が改(かい)易(えき)され津軽への国(くに)替(がえ)が発令されると、津軽家は越後へ転(てん)封(ぽう)させられそうになったが、けっきょく沙(さ)汰(た)やみになったのも、天海の支援や満天姫を通じた幕府との関係があったことは想像に難くない。
 寛永15年(1638)、満天姫は没した。享年50。信枚の死から7年後である。亡(なき)骸(がら)は津軽家の菩提寺長(ちょう)勝(しょう)寺(じ)境内の霊(たま)屋(や)「明鏡台」にある。その扉は葵(あおい)の紋で飾られ、寺の本堂にも、葵の紋を配した位(い)牌(はい)が置かれている。

杉山貞五郎の由緒書(弘前市立弘前図書館八木橋文庫蔵)

 ▽信枚と大館御前
 関ケ原の戦(慶長5年/1600)で、津軽為信が東軍に与(くみ)して参陣していたことは、有名な「津軽屏風」の分析によって明らかになっているが(長谷川成一「弘前藩」)、西軍の旗(はた)頭(がしら)を務めた石(いし)田(だ)三(みつ)成(なり)の末(まつ)裔(えい)が津軽に来たことも、近年知られるようになった。
 三成の次男石田隼(はや)人(との)正(しょう)(源吾)は豊臣秀吉に仕えたが、関ケ原戦後は津軽家の客分となり、杉山姓に改めたという(本田伸「関ケ原残照~石田三成の血脈」)。また、源吾の姉で「太閤の政所の御養女」の辰子は、信枚の側室になった(「津軽藩旧記伝類」)。
 辰子は、関ケ原戦の功で津軽家に与えられた上野(こうずけ)国大(おお)館(たち)領(群馬県太田市)に住み大館御前と称された
 天保4年(1833)の杉山貞五郎「由(ゆい)緒(しょ)書(がき)」には、大館御前の弟八兵衛(吉成)が津軽に呼び寄せられ、襲(しゅう)封(ほう)間もない信義に召(めし)抱(かか)えられたとある。以後は着実に加増され、寛永21年(正保元/1644)には1300石・御証人役加判に列せられた。
 杉山八兵衛は寛文9年(1669)、蝦(え)夷(ぞ)地で勃(ぼっ)発(ぱつ)したアイヌ蜂起(シャクシャインの戦い)において、幕府から加勢を命じられた弘前藩の侍大将として渡海している。その後、幕府から褒(ほう)賞(しょう)を受けるなど、大いに面目を施した(「津軽一統志」)。以後、杉山家は重臣に列し、弘前藩政に大きく貢献することになった。
(青森県史編さんグループ嘱託員 市毛幹幸)

 

◆一口メモ 津軽屏風

 大阪歴史博物館所蔵の「関ケ原合戦図屏風」を指す。満天姫が信枚へ嫁ぐにあたり家康から贈られた屏風絵で、長く津軽家に伝来した。